Yoga Arts 300h ティーチャートレーニング@バリでの断片①

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Yoga Arts 300h ティーチャートレーニング@バリでの経験は、今の私の生活にとても大きな影響を及ぼしていて、日本に帰ってきてからは毎日朝起きたらヨガの練習を継続してしまっているし、そして、なぜか菜食になってしまった。頂き物や会食時などは動物性のものも食べるけれど、自炊は基本的に菜食で、スパイスベジカレー作りに目覚め、ヴィーガンスイーツ作りに目覚め、大豆に目覚め。。
なぜこのような変化がおこってしまったのか自分でもよくわからなくて、でも、Yoga Arts 300h ティーチャートレーニングが大きく影響していることは確かで、あの経験が自分にとって何だったのかなかなか言語化できなくて今でも考え続けているのだけれど、今のところ言語化できることを断片的だけどぽつぽつと書いておこうかなと思う。もう半年もたとうとしているし。。。笑 感覚的だし、自分のための備忘録的な感じだから、誰かに読んでもらっても頭の中「???」になるかもだけどまあそれはいいか。。

あの経験は私にとって何だったのだろうか。一言では言い表せない、本当にたくさんのものが含まれている時間だった。ヨガについて、というよりも、人生について学んだ時間だった。いかに人生を波乗りしていくか、そのためにヨガを日々実践していく。人生の辛い苦しい局面にどう自分と向き合っていくか、いかに苦しみを少なくしていくか、そういったことを考えるエッセンスが、先生たちが発する言葉一つ一つににじみ出ていた。

そして何よりも自分自身と向き合った時間。トレーニングで日々を過ごす中で、自分に起こる様々な心の反応。
そうした心の反応を観察するとき、忘れられない過去の経験からくる恐れや不安、孤独、少なからずそうしたこととリンクしていたように思う。でも、そうした心の反応にとらわれないようにする、それにとらわれなくても私は大丈夫なんだよ、と自分自身を許す、解放する。その練習。
過去の経験からくる心の防衛反応が暴走する前に、それに気づいて解放していく練習。解放して、本当に自分が求めていること必要なことに気づいてそれに集中していく練習。トレーニング中に毎日その練習を繰り返すことで、私も私自身の過去も未来も現在も解放されて、癒されていったように感じた。
ティーチャートレーニングというと、「ヨガをしたい人に満足してもらえるようにヨガを教えるための方法を学ぶ場所」という印象がまず浮かんでいたのだけれど、私にとって、今回のトレーニングは、誰かのために何かを学ぶというよりかは、自分自身が癒されていく過程だった。その過程で得られたことが、今、他の誰かにヨガを教えるときに役に立っているように感じる。

メインティーチャーはルイーザ・シアー先生。本当にピュアな人。彼女自身が、彼女の人生の中で培ってきたもの、それを伝えてくれたんだと思う。人生ってね、辛いことも悩むことも沢山あるじゃない。でもね、そういう時はね、こう考えてみればいいんじゃないかしら。って。直接彼女がそう言っていたのではないのだけれど、そういった愛情のようなものがトレーニングの節々にあふれていた。どんなことが起こってもきっと大丈夫よ。と、言われているような気もした。べつに大げさに何かをよく見せようとするわけでもなく、彼女自身が大切だと思うことを出し惜しむことなく授けてくれているように感じた。等身大、うそのない、それでいて温かい、そんな人だった。愛情深い、澄んだ瞳。とても奥深かった。ああ、私もこういう落ち着きと温かさをもった人になりたいと思った。

他人とのかかわりのなかに自分を見いだす。
日々の経験の中で自分自身を見出す。

あのメンバー、あの環境、私は大好きだった。毎日が辛くて苦しいこともあったけれど、自分自身の人間的な生々しくて嫌になるような反応も含めて全てが学びで、あの時間をとおして、あの時間に経験したことが血肉と化している気がする。自分の弱い部分とも沢山対峙して、何回も泣いたけれど。でも、みんながいろんな喜びや辛さを抱えて生きているんだと、そういう人間の強さも弱さもありのままにただ受け入れる、そういう人々の中にいられたから、私はきっと自分自身でいられたんだと思う。本当にかけがえのない時間、空間。

英語でスムーズにコミュニケーションがとれなかったことは本当に悔しくて、悲しくて、ほんっとうにイライラした。聴くことはまだなんとかなったけど、しゃべるのが本当に大変で。セルフインクワイアリーで一人ひとりがトレーニング中に感じたことについて話しているときに「私はもっとみんなとコミュニケーションがとりたいのに、英語がうまくしゃべれなくて自分自身にすごくイライラしている」と言ったとたん、みんなの前なのに涙があふれ出てきて、おいおい泣いてしまった。先生にもいつも色々面倒みてくれてありがとうって伝えようとしたときも、急に涙が出てきたり。結局、3回くらい泣いたのかな。いや、4回だったかな。トレーニング中に。。。笑 普段は中々涙なんて流さないのに、泣こうと思っても自分自身に蓋をしてしまうんだけど、でも、あの空間では受け入れてくれる人たちがいて、自然と涙が流れ出してしまった。こんなふがいない自分なのに受け入れてくれて優しくしてくれてありがとうという気持ち、自分自身をさらけ出すことにおびえて中々一歩を踏み出せない自分にイライラする気持ち、いろんなぐちゃぐちゃな気持ちが混ざり合った涙。

慣れない英語、アーサナバリバリこなす人たち、自分の経験の浅さ、馬鹿にされないかっていつもおびえて。でも、それも含めて自分自身。だし、そんなおびえる必要なんてなかったって、今となっては思う。先生はいつも言ってくれていた。みんなそれぞれ異なるバックグラウンドを持った人がきているのよ。だからみんな、それを理解しておいてね。って。そして、誰かをばかにするような人なんて、本当に一人もいなくて、みんなが深い愛情をもった人たちで、いつも助けようとしてくれた。本当に素晴らしい人達だった。結局、恐怖や不安を作っているのは自分自身なんだって、改めて感じた。

そして自分は本当にピッタだなということも思い知った。イライラしない日なんてなかったんじゃないだろうか。。。笑。周りと比較して自分のふがいなさに落ち込んで、少なくとも表面的にはキラキラしてるようにみえるみんなが羨ましかったんだろうなきっと。
まだまだ人と接する時に身構えてしまうところもあるなって自分自身について思ったけれど、やっぱりもっと自分に素直でありたいし、そして人にも優しくありたい。だから、ちょっとずつ変わっていけたらいいなと思う。

早朝の瞑想のプラクティスでは本当に眠たくていつも舟をこいでいた。。笑早朝の練習で私が舟をこがずにいられたのは1か月の中でたったの2回(夜の練習はちゃんと集中できたけど、朝がね。。。)。私がちゃんと起きていられた日は、先生が「Don’t Sleep, Keep awake」と言う回数が少ないように感じた。笑 だから「ああ、毎日あれは私にいってたのかあ」とか勝手に思ったものだった。笑
瞑想の練習を毎日1時間以上継続して行ったのも今回はじめてだった。トレーニングに参加する前は瞑想の良さがいまいちよくわからなかったけれど、今当時の自分に瞑想とはなにか説明するとしたら、不安や恐怖など心の反応が暴走してしまわないようにするための、そしてそれになるべく振り回されないようにするための精神的なトレーニングっていうかな。瞑想をしっかり集中してできた後はなぜかスッキリして、自分が意識を向けるべきこととそれほど向けなくてもよいこと(過去の失敗や未来の不安など)が整理される感覚。日本に帰ってきてからは1日15分くらいしかできていないけれど、それでもやっぱり心がスーと静かになる。

日本人で唯一参加していたみかさんには本当に救われた。私は色々とフラストレーションを貯めやすくてイライラしがちだったのだけれど、でも、彼女がいつも話しかけてくれて、心を落ち着けることができた。辛いことがあっても、ブレない、淡々と取り組んでいて、かといって楽しむことも忘れない、そのバランス感覚いったいどこからくるの?本当にすごいなって思ってた。このトレーニングで出会えて、本当に嬉しかった。本当にありがとう。

そして、朝のアーサナプラクティスは毎日シャバーサナで意識が飛んでた。毎日、本当に気持ちよかった。長めのキープにドリシティ。終わった後に全体が整うシークエンス。意識は常に呼吸。目の上にのせるラベンダーの香りがするアイピローも最高だった。プロップスのサポート、リストラティブも本当に気持ちよくて毎回意識が飛ぶ寸前までいってたな。

そして、自分の膝の弱さも改めて思い知った。左膝の前十字靭帯を損傷しているのだ私は。怪我からもう18年たつ。1時間の呼吸法、それに続き1時間の瞑想を毎朝胡坐で過ごすことで、膝の不安定感が増すことがわかった。歩くときに膝が痛くなってしまい、歩行姿勢で左足を上げたときにに膝から下が膝にただブラブラぶら下がってるような感覚、膝下と膝上がつながっていないような、ただロープに膝から下がぶら下がっているだけのようなそんな感覚。実はとても気持ちが悪い。だから、とりあえず今も瞑想と呼吸法で少し長めに座るときは椅子に座るようにしている。脛が床と垂直な状態で(例えば椅子に座っている時など)長時間キープしてもそれほど違和感は発生しないのだけれど、脛が床と平行に近い配置で(例えば胡坐座など)長時間キープしてしまうと、膝の不安定感が増す。できれば胡坐でやりたいけれど、やっぱりまだ痛むから、しばらくは様子を見ながら椅子でやっていこうと思う。世界でたった一つのかけがえのない自分の左膝だから、大事にしたいのだ。

あとは、ヨガを教えることへの自分の考え方も変わったかもしれない。今回のトレーニングを受ける前は、トレーニングが終わったらオーディションを受けていっぱい教えるぞーとか思っていたけど、トレーニングの後は、なぜかそうは思わなくなっていた。なんだか、もっと大事にヨガと付き合っていきたいと思うようになった。そして、ヨガを通して出会う人達とも、丁寧に付き合っていきたいと思った。雑に扱いたくない。一瞬一瞬を大切に。そして自分自身の練習をもっと大切にしたいと思うようになった。人に教えるのは、自分に無理のない範囲でと思うようになった。今のところ求められたら教えるのがちょうどいいかんじ。友人や職場の大切な人たち(そしてたまにオンライン英会話の先生笑)がヨガを求めてくれていて、自分の好きなヨガを共有することができて、そういう場が自分にあって、本当にありがたいなって思う。準備とか時間がかかることもあるけれど、自分の好きなことを共有して誰かの役に立てたり喜んでもらえたり、誰かの大切な時間の一部になれること、やっぱりシンプルに嬉しい。ティーチャートレーニング中に83歳の祖母向けのシークエンスを作ったから、ほんとは和歌山の実家に帰って一緒にやりたいんだけど、コロナを持ち帰るわけにもいかずまだ実現できていない。。母向けのシークエンスもつくったからそれも早く一緒にやりたい。。

あと、セルフプラクティスで気持ちよくなることができたのもおおきい。ティーチャートレーニング中は自分のため組んだ2時間のシーケンスを1週間に1回やったのだけど、初めてだったな。自分の練習であんなに、ああきもちいいって思えたのは。それまでは、気持ちいいヨガはスタジオやスクールに行かなきゃできないって感覚でいたけど、その考え方から一つ脱したかな。自分で自分を癒すことが少しできるようになってきたかも。

2年前、鈴木まゆみ先生に、「先生のクラスとても気持ちよかったです。ありがとうございました!」と伝えたときに、「でも、それって、私(先生)がやったんじゃなくて自分自身でやったことなんだよ。」と言われて、当時は頭の中が「?」になってしまっていたけれど、今は先生が言いたかったことがなんとなくわかるような気がした。
伝えたかったのかもしれない、人って自分で自分を癒すことができるんだよっていうことを。ヨガって別に誰かにやらされてするのでもないし、自分が選んでするもの。そしてなにより自分の体の感覚を頼りに自分で体を動かすもの。インストラクションというのはあくまでも伴走者で、ちょうどよいポジションにドライブするのは自分自身。

人生についても同じで、普段、仕事の評価とか、どれだけ多くの人に好かれるかとか、いかに嫌われないかとか、そういった外部の要因に自分の価値やよりどころを見出そうとしがちだけれど、そして、そういった要因に応じて自分の行動を定義しがちだけど、
でも、そういった外部のものだけを自分のよりどころにすると、結局自分自身がよくわからなくなる。私はなにをしている時に幸せを感じて、どうあればちょうどよいのか。そして、外部の状況に左右されやすくなる。過剰な期待を抱いてしまう。期待しすぎるとそうならなかった時の反動が大きくなってしまうかもしれない。感受性が敏感な時は、辛くなりすぎて生きることさえもつらくなってしまうかもしれない。
でも、自分で自分自身の「ちょうどよい」を探して調節して癒すことができれば、そのすべを知っていれば、外界が荒波のように感じられたとしても、自分の内側は少しは平穏でいられるかもしれない。平穏ではいられなかったとしても、どうあれば自分は穏やかでいられるのか考えるきっかけとなって、そこから新しい何かが始まっていくかもしれない。
「あなたは人生の舵を自分で握ることもできるんだよ。それを忘れないでね。」って、そう先生は今も伝え続けてくれているんだろうなって、そんなきがした。

ヨガって人生なんだなって、ようやく、なんとなく、感じてきたところ。

その他でYoga Arts 300h ティーチャートレーニングをきっかけに目覚めたこと

  • 瞑想
  • ヨガニードラ
  • プロップス、リストラティブ
  • 菜食
  • アーユルヴェーダ的食事法
  • セルフプラクティス
  • ヨーガセラピー

大体書いておきたいことは書き殴った感じがする。他にも色々なことがあったのだけれど、それはまたどこか別で、書きたくなったら書こうと思う。

※余談
トレーニング中に5キロ体重増えました。。毎日好きなだけ食べられる、しかも全部菜食な環境だったから、つい、つい。。。帰国してから何とか少しずつ元の体重に近づけています。体重が増えてしまうと膝にもすぐ影響がきてしまうので気を付けなければっ。

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